アーユルヴェーダシェフとして
ヨガインストラクターとして、
外的な実践を通して身体的な探求を深めながらも
実はそれ以上に神経を研ぎ澄ませる修練として
設けている時間が
ヨガスートラを読むこと、です
一時期毎日読んでいたのに
すっかり手が、頭が遠のいていました
一番大切なのはそういう時間なのに、
これまでの人生では
散漫な時間の使い方をしがちだった私にとって、
頭をただからっぽに
ヨガスートラを読むことは
実は大きくエネルギーを使うことです
頭をからっぽにする、には
雑念をある程度お掃除しないと
入ってきたそれをそのままに受け入れるには
やはり、雑念を整えてポイっとしていかないと
それでも心の根っこは
そういうことが心地よいというのを知っているのか
ヨガ留学からその前後においては
スキあらばスートラ!という感じで
自分の至らなさ、
無知加減を置いてきぼりにしたまま
ただただスートラを読んでいる時間が好きでした
一度に長い時間読み続けることは
なかなかできず
いつもパラパラと見開いたそのページを
繰り返し何度も何度も読んで、
意識がそこと結びつきを見出すまで
神経を集約させます
そして
自分の人生で置き換えたとき、
それをどのように活かせるかを落とし込んでいくのです
そんな風にして、
一見、はた目には地味なことのほうが
実は大きなエネルギーを要しているのだという経験をしてます
(生まれつきそのことが自然な状態、という人もいますね)
今朝パラパラと開いたページでは
こんな教えがやってきました
サティヤ
もう何度も心の中にやってきては
揺れ動いているテーマです
ヨガをしている人なら一度は触れたことのある
言葉ではないでしょうか
サティヤは
“正直さ”
“それであること”とし、
正直さはその人を強く成長させる
とヨガスートラでは説かれています
自然は正直な者を愛するし、
サティヤが実践されるとき、
その人は嘘一つつかず、本当のことだけを口にする
本当のことだけを云うことで
その物事は追う必要がなくなり、後からやってくる
・・・
正直さって、難しい
嘘を云わずどんな時も正直であることとは
同時に自分からエゴを切り離す作業でもあるからです
個人的なエピソードです
先日、私は
“あなたのためを思って”といいながら
彼に喧嘩をふっかけていました
本当のところでは
“自分のコントロール欲を満たそう”
としていたことに気が付いたとき
私はどうしようもなく恥ずかしい気持ちになりました
相手のためを思って、といいながら
相手の言動を否定して
自分の思い通りにしようとしていたのです
これは愛ではなく、エゴでした
一緒にいる中で絆が深まる出来事もあれば、
一瞬の甘えで“愛する正直さ”が衰退して
自分にも相手にも嘘をついてしまうことになる
このことに気づかせてくれた彼に感謝しています
そうでなければ、
私は何度もまたそれを繰り返してしまったかもしれません
今から8年前に彼と出逢ったとき、
そこから長い間友人関係が続きました
“恋人同士になりたい”という、
私のかわいらしい願いにも似たエゴは叶わず
そこから「サティヤ」の実践が問われました
(当時サティヤという言葉は
ヨガの大切な要素ね、
くらいにしか解釈しておらず
しっかり認識こそしていませんでしたが、
他にもヨガがもたらす“マインド”にまつわる
あらゆる書物を読み漁っていたので
無意識に“きちんと向き合う”という志が
念頭におかれたのかもしれません)
自分の心に、相手の心に正直でいられるか?
このことを、
私は彼と出逢えたことで学べたと思っています
「純粋に楽しむこと」
=後先考えないこと、目の前に起こることをただ楽しむこと、
相手から良く思われたいとかいう計算、
いつ告白してくれるだろう?などという見返りは一切捨てる
「彼がどういう人間なのかきちんと向き合って理解する」
=分かったふり、安易に同調をせずに
どんな経緯があって相手がそのような考えに至ったか、
彼の信念は何に基づいているのかを内側からの目で見て理解する
「一緒にいることで互いに成長できる、そういう自分であるか?」
=相手を幸せにできる自分であるか?
相手と居ることで満ち足りる自分であるか?
(同じ空間に居なくても満ち足りているか?)
寂しいから会いたいとかは自分の欲、
寄りかかりたいとか
満たされたいとかそういう思いなしに
自分の足で立った“まま”で
相手と過ごせる自分であるため
・日頃の時間を大切に使うこと
・暇つぶしとか怠惰なエネルギーをなくして
・有益な学びを会っていない間にも蓄積する自分でいること
そうしていくうちに、ようやく私にも
僅かながらの“サティヤ”が根付きました
相手を本当に大切に想えるために、
相手を本当に大切に扱えるために
その当時私にできることは
自分の身体、心を育てることでした
その姿勢を忘れたら駄目ね!!
と今回改めて思い直したのでした
サティヤは、
「そうであってもなくても、その人を愛すること」
といったマイラの教えにも通ずるものだと感じています
ヨガ哲学のお話について、
もっと話したいということがあれば
お料理教室などでぜひ仰ってください
実践に基づいたそのようなお話は、
魂を浄化してくれる、良いものです
いつも愛をここに
“自分を知ることによる幸せ”
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全米ヨガアライアンス認定 ヨガ指導者
Hale Pule 認定アーユルヴェーダシェフ
kaori