どんな風にして自分の機嫌をとりますか?

 

プラーナの巡りを良くしましょう

プラーナは「気」のことで、私たちにとっての生命源そのものです

例えば、
怒りや恐怖心、心配する想いがあるとき、プラーナは「詰まり」ます

「詰まった」プラーナは、その行き先をどこで解消しようとして、
涙を流したり、誰かにそれを話したり、
はたまた何かによってそれを「紛らわそう」とするかもしれません

 

アーユルヴェーダやヨガの修練は
様々な手法によってプラーナを心身へ迎え入れることに繋がりますが、
それはその人の “ 生命力 ” として強固していきます

プラーナは澄んだエネルギー、高貴なパワーであるからです

 

日々の積み重ねでプラーナを受け入れていると
心身の「通りがよくなる」ので
そもそもの感情や滞りの “ 沸点 ” も次第に緩和することになります

 

【古いやり方】 >> 【新しい目線】

・心配する >> 受け入れられるようになる
・怒る >> イライラの基準が外れていく
・考えすぎる >> 明晰な思考がうまれる  ……のように



どんな風にして
自分の機嫌をとりますか?

私の匠は、普段の生活から、「何を行うか」、・・・
つまり、何を食べ、何を飲み、何を選び、誰と関わり、どこに行くか、何を娯楽とするかも含めてすべてが
「あなた自身に多大な影響を与える」と云いました

自分がしている「気の紛らわし方」は、実はとても重要ということ

 

・・・嫌だな、面倒だな、…などと心が塞がれるような反応をしたときは
「なぜそう感じたか?」を正しく点検する必要があります

さもなければ、湧いた感情をあっという間に「正当化」し、
安易な「紛らわし方」によってそれを解決したつもりになるからです

「つもり」ということは、
本当に起きているそれを直視・経験する機会を逃していることになります

すると、少ししてまた同じことに出逢います
前回の体験で“解決”していないので、
それに対してまた同じ印象や感情を抱き、同じ「気の紛らわし方」をします

が、根本的な“種”はいつまでも心身に残ったままで、年々錆びついていくのです

 

ここでいう「気の紛らわし方」とは、
有難いことに利便性を追求した果てに(?)“安易”にそれを発散できるけれども、決して根本的な解決には至らない手段のことをいいます

 

嫌な事があったら逃げるようにしてそれに没頭する、・・・
そんな経験ありませんか?

心や思考が塞がれるような、
重く、または鈍い感覚が自分の心身を引きずるのをそのままに受け入れ、耐えられないからという思いからすぐ「発散どころ」を求めると、以下のような行動につながるでしょう

・暴飲暴食に走る
・健全とは思えない投資、浪費をする
・ゲームやその他デジタルな世界にのめり込む
・やる気が起こらない、無気力感に陥って怠ける

・感情に任せたまま自分を正当化する、周囲が悪いと決めつける
・暇つぶしに時間を費やし、自分の経験を逃す
・過剰に何かを欲してそれに溺れる
・そのものに対し重く鋭い嫌悪感を抱き、他の関連するものにもその印象をぶら下げて見るようになる
忍耐力、慈悲、やさしさが乾いた態度になる
刺激性(ラジャス)または怠惰性(タマス)に逃げる

これらの「気の紛らわし方」は、自己成長の機会を妨げるどころか、
心身の滞りを助長し、子どもなままの自分を暴走させます

表面上には“大人”であっても、精神は子供なままなので、成熟や愛情とは程遠いところに取り残されます

すると、「見栄えをよくすること」や「多くのものや知識を持っていること」で自分自身をカバーしようとします



どのようにして

自分の「機嫌」をとりますか?

自分の機嫌をとるために
安易な「気の紛らわし方」を駆使すると、
次第に自分の欲求と理性との区分が曖昧になります

理想と現実への解釈が歪み、自分の実際の人生から分離が起こります

 

なぜこのような話をするのかというと、
私自身、長年(今も時々)そのような負のサイクルを繰り返してきたからです

幼少期から強い嫌悪感と怒りを抱えて過ごしてきた私にとって、自分のご機嫌をとるには「気を紛らわすもの」が絶えず必要でした

・いつも小さな欲望や刺激性を満たすことで現実を逃避し
・真実をまっすぐにみて受け入れることをずっと拒否する

子どもな自分を守るのに必死で
無意識にいつもそのような選択をしていました

うわべでは、
聞き分けがよく切り替えも早い風に見えていても
本当の部分、根っこでは「何も」変わっていませんでした

嫌なことがあれば、それを回避するために
いつも安易な解決法に飛びついていました

 

数年前、ヨガ・アーユルヴェーダとの出逢いでその原理に魅了されたのはそのためでもあります

「起きていることを真正面から受けて、逃げない」ことの経験でした

色をつけない、
決めつけない、
抵抗しない、
安易に発散しない、
今必要なことを淡々とする、・・・
そんな、力のない確かな実践です



「すべての原点は自分にある」

そのようなヨガとアーユルヴェーダの教えから
人生で「今までと違う選択肢」を与えてもらいました

物事は、“ 何のせいでもない ” 、し、
“ 自分のせいでもない ” のです・・・

 

本当の意味でそれを “ 経験 ” するのであれば
まず起きたことを直視することから始める必要があります

主観的な観点だけでなく、
自分の「感情の根っこ」に関わるすべてをみるのです

負の感情が湧くときというのは、自分の内にそれと関連するものがあるから。

 

ヨガやアーユルヴェーダは
言ってみれば “ 自分の面倒を見ること ” なのだと感じてます

その人の成熟度合いによって得られる恩恵も変化していくのが魅力でもあるのでしょう

 

今の私が「自分の機嫌を取る」のにしていることは
・サットヴァとともにキッチンに立つ事
・家でのことを完了させてから外出する事
・あてもなく散歩すること
・空を見ること
・目をつむり頭の中心を通して大地とつながること
・バラの花びらでサムスカ―ラを燃やすこと
・自分との約束を優先すること
・時間を守ること

・身の回りを清潔に保つ事
・自分に笑顔をあげること

です

 

どれもこれも、「ヤマ」「ニヤマ」に沿う実践です

ヤマ・・・・自分に正直で誠実であること
ニヤマ・・・心身を浄化し、修行すること

お金はかかりませんし、ムリがないうえその後の作用も快適です

 

もちろん、サムスカ―ラが鈍さや鋭さを引っ張ってくることが今でも幾度とあります
それでも「本当の方法」を知れば、「古いやり方」にしがみつくことはなくなります

 

「すべては成長する機会として
 必要に応じてやってくる」

これもゆるぎない真実の一つです

逃げれば またそれはいつかやってきます
オープンな心で克服すれば、それは経験になります

 

そのようにできるときも、できないときも、
起きた事実から目をそらさないことだけは大切だと思っています

 

 

本当に味わいたい気分、
本当にみたい世界、
ありのままの自分を体感するため
ヨガとアーユルヴェーダの実践はあるのかもしれないですね

 

私自身も旅は始まったばかり、
今後の道のりにも光を、自分に笑顔を宿していけますように

 

皆さまの道にも、
「本当に気に入る瞬間」が訪れることを願っています


いつも愛をここに

“自分を知ることによる幸せ”
ヨガとアーユルヴェーダと食事
全米ヨガアライアンス認定 ヨガ指導者
Hale Pule 認定 アーユルヴェーダシェフ
k a o r i

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