ところで、香織さんのブログを M さんの仰るところのストーカーの如く読み、そして YouTube 映像を観ると、今はハワイ留学直後より、よりリラックスされてより自由にしかし消化力を大切にしつつ食を楽しまれている様に感じました。良いなぁ、この感じ、とすごく思いました。
何故なら、偶に私ってがストイック過ぎやしない?と自問するからです。
最近は外食も誘われると、うーむどうしよっかな🧐と考えちゃうし(講義内最終章でそれについてお話しされていましたね)。香織さんは、『いよいよ健康になったな』とアーユルヴェーダを始めて3年くらい経って感じたとビデオで仰っていましたが、時と共に自然と外食も楽しまれるようになりましたか?今はすこぶる健康で、自由で、本当にイイ、この感じ!と羨ましく思いました。
アーユルヴェーダの学びで尊い本があるけれど、あれだけでは、私の場合、本当に真面目に火がつき過ぎちゃって修行僧のようになってしまいそうで、私という人には、絶妙なバランスでユーモアとオンリーワンなアーユルヴェーダがある生活をシェアしてくれる香織さんの声や文章が大変貴重です。
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自分らしく健康と幸福をつくる
上記へ〝 答え 〟という答えは容易ではないのですが、私が〝 自分 〟に気づいて自分らしく健康と幸福を育む過程に気づいたことについてをまとめてみます。
まず、当時私は
自分をストイックなどと思ってませんでした。
周囲からはそう見られているであろう
ことは感じてましたが、
私は自分のためのことしか考えない
自己中心的野郎なので
こう!と思ったことだけを行動してしまうのです。
例え周りからは理解されなくても、
自分のなかに理由がきちんとあることは
良くも悪くも突き通してしまいます。
そんな〝 実践 〟の最中で
( 自分のやり方や考え方を変えるのに )
大きかった出来事としては、
パートナーおしんにいわれた
『 俺は普通でいいんだよ 』
の言葉でした。
生まれつき誰よりも努力して
滲むような苦労も重ねてきたこのひとが云う
『 普通でいい 』の言葉は
なんだかへんな重みがありました。
健康について
真摯に ― こだわって いる
自分の内にある
偏り・執着( 恐れ )がそのときハッキリみえて、
自分の健やかさや幸福を自分自身で蔑ろにするかも、と気づいたのでした。
だから、
土台として大切なこと必要なことはするけれど、
それによってすべてを遮ろうとするような、
支配欲 ( 恐れ ) は手放していくこう
と改めて考えるキッカケになりました。
アーユルヴェーダは幸福のための科学であって
ヨガは執着を手放し受容し生きることを私たちに伝えています。
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時代によってその習慣や
連続した取り組みは異なるので、
その時々で必要な形と実践を見出すのが本来の目的だろうと思います。
それに、私たちの人生は
〝 完璧にデザイン 〟できるものではないのだから。
むしろその〝 余白 〟の波にも
心地よく乗れるような自分であること、
それが幸福の機転だろうとも思いました。
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2016 年のプラクティスで
私は自分のしてきたことがいかに自分自身を苦しめ、
不健康に陥らせ、
人生そのものに嫌悪感を招いていたかを知りました。
後悔の念というよりは反省、
あるいは罪悪感の反射のような思いで、
これからの人生では
過去と全く違う結果をもたらせるように
と自分に誓ったのでした。
その道のりは、終わりがない。
正しい順序もなければ、絶対的な条件もない。
そのことも解っていました。
だから、とにかく実践するほかなかったという感じでもあります。
何をすれば自分の身体が歓ぶか
何をしたら自分の心が傷つくか
は、過去の経験上ハッキリ理解したので、
新しいやり方を ― 真っ新なこころで
日常へと根付かせようと試みたのが 3 , 4 年と続いて
‥ 7 年近く経って、今の私が在ります。
私にとってその日々は、
挑戦でもなければ
覚悟でもありませんでした。
ただ、もう一度自分ときちんと向き合おうと想いました。
たった1か月間のプラクティスだけれど
それにより大きく
生まれ変わりつつある自分の身体と心を、
大切にしようと思っていました。
きっとそれが、はたからみたら
〝 ストイック 〟に映っていたと思うのです。
でも、私には匠の教えとその姿勢が、
人生で初めてくらいの〝 完全性 〟として目に映り、
費やされたエネルギーと時間に
自分がどれだけ身を委ねられるか、
オープンであり続けれらるかに希望を抱いていました。
そこから帰国した当初は
〝 ひとりで 〟実践を続けていくことが
私の『 生きることの意味 』になっていたのかもしれません。
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生涯変わらない私の気質に
〝 極端さ 〟があり、
ゆえにその極端さなかで帳尻を合わせて
バランスを創造しながら生きることこそが
私を支えるのですが、
だから何事も初めは特に
ストイックになってしまうし、
ストイックにやらないと分からないこと
分かれないことが多分にあって、
そこからようやくユルくなったり、
自分なりに力を抜いていいところなんかを理解できるのです。
加えて散々書き散らしてきたことだけれど、
これまで私の身体や精神に潜んでいた
慢性的な不調・未病の症状は
長年の蓄積によってそこにあったため、
その〝 環境 〟を外的
ないしは内的にも変えていく必要がありました。
( 26 年間の蓄積って、大きいんですよね )
冷え切った身体でありながら
節々で炎症を起こしていることや、
不規則な食事・偏食・間食のクセ、
ランダムな仕事スケジュールで良質さを保てない睡眠。
なにより、その他要因で
〝 精神 〟の乱れも慢性化していたので、
生活 ― 人生の質そのものが低くなっていました。
〝 考え方を変えなければなりませんよ 〟
〝 正解・不正解はないです、どれだけ意識的で居られているか、それだけです 〟
〝 どれだけ自分に必要かを自分で考えてください 〟
そういった匠の言葉に
私は長年かけて自分なりの答えを探してきました。
ときに規律をもって、ときに都合よく解釈して。
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幸運だったのは
〝 アーユルヴェーダの教え 〟が
私にとってとても腑に落ちるものであったことです。
おしんとも日々あらゆることを話し合ったり
考えや想いを互いに伝えていくと、
時差あろうともその〝 報酬 〟が必ずやあって、
誰かと共に生きることの尊さや
誰かが自分のために生きようとしていてくれること
誰かのために生きようと
自分もそう思えることの幸せを噛みしめていました。
共有できる価値観や
本当の意味での尊重が芽生えていくと、
人間は、孤独であっても
ひとりではないと理解できます。
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〝 アーユルヴェーダは暗記する科学ではありません。芸術です 〟
匠のその言葉に静かなる感動を覚えたのもそのためで、
私たちを取り巻くこの世界が
なにから ― どのように出来ているか、
私はそのことをアーユルヴェーダや
パートナーとの歩みによって深く認識していきました。
自分の行動・思考にも
一定のパターンやリズムがあること、
その個性について、
根本から触れて深く受容することも経験して
健康と幸せは、
自分自身で ( 誰かと ) 創りあげるものだと分かったのです。
自分自身をよくよく観察して
必要なことを与えて
不要なことは取り除いていく。
ときに愉しみ、苦しむこともある。
けれどこの連続から
人生への取り組み方・愉しみ方は変わり、
苦しみについての味わい方も変化が出てくる。
今現在日常で感じ得ている幸福が、
昔とは大きく変わっていることに気づきます。
食事と生活を
〝 ストイック 〟に管理していた期間は
私にとって自分自身との信頼関係を築き直す機会でした。
半年~1年、そして2,3年と
小さな軌道修正の積み重ねが
いよいよ私の身体の自由度を増して、
精神的な〝 通常 〟を
維持してくれていると気づいたとき、
私は『 私だけに似合う人生 』について
考え取り組むようになったんですね~。
自宅でつくる食事は
相変わらず定番のものばかりで、代わり映えしません。
旬の食材を取り入れることはあっても、
目新しい調理法やメニューはないです。
料理すること食事をつくることに
そこまで興味がないんだと思います。
しかしこのようなルーチンが
健康や幸福の規律を保ち
土台を支えていると実感していて、
必要で、
結果心地よい感覚へと導かれるので続けられています。
当初は外食することに
否定的な想いしかなかったのですが、
それはそれで
当時の自分なりの考えとしては正しかったと思います。
自分を変えるって
そんな生半可なことではなかろうし、
既存のやり方しか
宛がえなかったら自分は変わりません。
私にとって
〝 自分の基盤を立て直すこと 〟って、
ゆるくやって可能になること
ではなかったと自覚してたのだと思います。
いずれ外食するにしても
消化力の高い時間帯に限り、
相応に純度が保たれている食事を
提供しているお店を調べるようになって、
あとは前後のスケジュールで
消化力を整える工夫をするようになりました。
外食 = 悪 でもあるんだけど
外食 = 五感の愉しみ・ひととの愉しみ と考えるようになりました。
どう関わるか、
どう扱うか、
それが大切なんだろうなと。
過去散々快楽的に外食に通っていた自分としては
そこにある高揚感や
誰かがつくってくれる食事と
その空間に甘え安心したい想いが強かったのだろうと。
勿論このところの外食でも
そういった要素はみられるけれど、
以前と変わったのは
〝 自分の心身の状態や態度 〟で、
楽しみ方も味わい方も( こうして思い返せば )別人です。
想った以上に身体って素直で、
精神と深く繋がっています。
私は、当初の数年の取組みがあったおかげで、
だんだんと身体が本当に健康になったこと、
食への楽しみ方が
もっと本当の意味で自由になれたと感じています。
無論、以前は食べていたけれど食べなくなったものや
美味しいと感じなくなったものもたーくさんありますが、
それは真実の―正常な姿であることが分かるのです。
こういう〝 感覚 〟が養われると同時に
直感力や思考回路も快適になってくるので、
パートナーとの関係性や
自身の仕事の在り方
それに関わる人との出逢いも年々純度が高くなっています。
( なんというか、基本的に健康になること、+近しい人間関係がうまくいって、やりたいことを仕事やその他に充分表現できる=それが何かしらの貢献に繋がる、が近年の私のライフスタイルでした。)
本当の意味で幸せに、
楽しく生きるには健康な身体(精神)が必要不可欠です。
満ち溢れた幸せを
目の前に今の私が想う事はこれに尽きます。
そして、
健康を築く過程は
人それぞれ異なるということ。
スタート地点( 状態 )が
皆違うのだからそれは当たり前で、
自分に必要なことがなにかを
見極めて実践して継続することが大切。
お手本はあるようでないし、
正解もあるようでない。
自分に正直になることです。
― 何をすれば自分の身体が歓ぶか
何をしたら自分の心が傷つくか ー
‘ 身体の声に耳を傾けて心の衝動には背を向けろ
‘ 深刻になったらそんな自分を笑い飛ばすこと
そうして、
結局のところは
自分の人生全体を
自分で日々コーディネートしてくことが
人生の意味そのものなのだと今は思います。
何かを楽しむこと・消費や娯楽も
きっと 心 次第で貢献や循環の一環になれるのだと。
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Kaori