日本、東京で忙しい人にこそアーユルヴェーダを、と今から数年前、小さなプラクティスを始めました。
そもそもは自分の為に必要だったアーユルヴェーダ。
誰かに何かを伝えるのは二の次・・・なスタンス( でも備忘録としては残しておきたくて )で居ながらも、ご縁が重なりマンツーマンでのお料理教室から始まって・・・母国ベトナム × アーユルヴェーダ料理の試食会や 1 日 7 時間かけて深めていく基礎講座へと続いていきました。
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ここで実践したすべては、様々な状況下に居る人にとって〝 自分自身に立ち返る 〟ことだったと思うのです。
そこにアーユルヴェーダの教えや、レシピがあった。そんな空間。
私自身いちアーユルヴェーダプラクティショナーとして、このようなプラクティスを行うのは
・自分自身が健康で幸せに生きていきたいから
・誰か似通った状況下のひとを見捨てることは到底できなくて & 茶々を入れてはあわよくばその人の状況が好転してくれたらと願うエゴが多少なりともあるから
なのです。
ときに、当人それぞれのカルマなのだろうから・・・
と自分の力量不足を都合よく言い訳し一度は果たそうと決めたはずの役割をいっそ手放してしまおうかと考えるときがないでもなかったり。
しかしそれ自体が私の立ち返るべきカルマを照らし出し、変わらない「 大事に思うこと 」が先へと進ませるのでした。
そしてそんなときに限っていただく受講者様からの様々な変化のお声やリクエストは、必要と不要との概念を外れて起こるべきことが起きるのを導いてくれていました。
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「 決めつけられたくない 」という長年のエゴ、反骨精神から、じゃあ自分自身も他の誰かを「 決めつけているのではないか? 」と問うとき、何となく1つのことについてブレーキを踏みながら試行錯誤を施し中間地点を探ったり、互いに責任横転とならない無難な形を探するところがあるなかで実のところ、グルヴァディグナの相反する性質や相互関係について知ることになったり、動機と行為を繋ぐものを見つめてきました。
けれどそれらの全容は、実は自分自身や相手のことを信じていることの裏返しでもあったりして。
・・・動機を剥がして剥がして、剥がした先に実はそれ同士を違うフェーズで繋ぐことに至る。
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誰かに影響されたりどこかで云われたから
とただやるより
本人がそれについて本気で気づき
考え抜き、そのうえで決め、選び、
行動を始める方が
結局は深く根付くプロセスへ続くと信じている
そういう意味で「 もう、戦いは終わり 」にしたい。
もっと言えば、表面的な戦いは、ということになろう。
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自分のキャパシティを知る。
私たちは意外とこれを蔑ろにしている場面て多いと思います。・・・自分自身のキャパシティ ( 個性と力量 ) を無視した過ごし方。
これこそがあらゆる矛盾や表面的な争いの発端だと感じます。
・肉体的なキャパシティ
・思考的なキャパシティ
・感情的なキャパシティ
どれにとっても「 過少 」や「 過剰 」になる場面が現代では常で、それによって本来不要な痛みや苦しみに苛まれていると思えることが往々にしてあります。
全てをキャパシティに納めて暮らそう、と云っているのではなく〝 適宜整えたり、ケアしたりして、キャパシティを維持、向上する術を持とう。そのために気づこう、もっと自分のことを。〟と考えます。
じゃあ、そもそもの自分のキャパシティって?というところが、私はアーユルヴェーダによってとてもよく、まじまじと理解しそのうえで日常や人生を営むようになりました。
アーユルヴェーダだけがその術を提唱しているわけではなく他の何かでも、もっといえば何もなくても ─ 本来人間としてそのことに気づくのが普通だろうけど、これを知ること = やること = 内なる優しさを育むことと繋がると思います。
本当の意味で優しくないと、本当の意味では強くなれない。
・ベストパフォーマンスで賄える範囲
・まぁボチボチそれなりにやれる範囲
・これ以上はやったところで何の良いものにもならない、ナシ!という範囲
・・・これらがアーユルヴェーダによって割と明瞭に察知できる日が増え、自らの信頼をもって ・やる or ・やらない を判断できるようになったと私は実感しています。
・・・キャパシティが不安定で不十分な状態では、どんな「 情報 」も「 食物 」も、その「 方法 」は一時的には状況を良くするも、実はさほど意味を成さないかもしれない。
そこから生じる表面的な戦い・争いが「 〇〇 は悪い 」とか「 〇〇 は間違ってる 」といった表現をもって巷で繰り広げられます。
ですが、どれも、必要に応じてそこに生じたものであって、どれも、悪くはないのです。
極端に云えば、選んだ当人、ただ人 ( そして全員に通じる ) の問題だったりもします。
思考(頭)・感情(心)・肉体が「 過少 」ないしは「 過剰 」にあれば、例え〝 飲み水 〟であってもそれは何かしらの副作用をもたらす引き金になり得ます。
盲目的に信じることと
信念を持って全うすることとは意味が違います。
〇〇 だけが悪い、のではなく、それを乱用したり、そもそもの心や前後の習慣が不健康をもたらしているとしたら
一概に 〇〇 が悪い、とか 〇〇 が間違っている、とは云えなくなります。
プラクティショナーとしてアーユルヴェーダをお伝えするなかで、ごく初めの方にそのことを気づきつつあったのですが、健康法や幸福を求めるとき、私たちは何か一つのことでそれを損っているのではないのですよね。
じゃあ何をどうすればいいの?と言えば、やはり必要なことを取り入れて不必要なことを取り除く。
その周辺にある古いものを認識して徐々に塗り替えていこう、が最善です。
Ananda に限らずあらゆる角度から伝えられているであろうアーユルヴェーダやその他の手立てはすべて「 入り口 」であって「 出口 」ではないということを心に留めておくとよいですね。
・・・これをお伝えするうえでは、タイムリーに記載してしまえばどうしても〝 矛盾 〟が生じるし、
事実サットヴァに徹してアグニを整えるあらゆることを実践する = 自分を信頼することと繋がったとき、 すべては好転し気づけば〝 アーユルヴェーダのアの字もない生活ですが、心が満たされているので幸せです 〟といったフィードバックも出てくるのです。
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冷凍食品を開発したり、電子レンジを普及させた人へも、ファストフードを流行させ添加物を製造した人へも、農薬撒いて食物を育てる人へも、有難うだな!、と。
なぜなら〝 それ 〟が自分の健康を害しているのではなく、無知や不感症といった〝 状態 〟が一時的にそうさせているだけだと気づいて。
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■ そのすべてへ導いた先人、社会で努力を重ねてきてくれた人たち皆へ感謝を知ろう
■ 必要に応じてすべてはそれらしい形になっていくから、今自分の信じることを自分なりに続けよう
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アーユルヴェーダ省察プラクティショナー
K a o r i