アーユルヴェーダでは、
あらゆる不調や病は「五感の誤用」によって引き起こされるとしています。
自然界の中で生きている以上、私たちの行いが自然の摂理から離れれば離れるほど、それはとうていうまくいきっこないのです。
陽が昇る頃に起床して陽が沈むとともに活動の手を緩め、一日という時間のなかでの「小さな死」を経験する。
このことが指し示す原則といえば、生きることがどれだけ単調でそれでいて美しいか、ということです。
五感が誤用されるとき、私たちは自分自身との分離を経験している状態を表します。
自らを尊ぶことを蔑ろにして、他人の目に映る自分の姿形や、過去の残像と現在との自分を重ね合わせて何となく虚像のような自分を演じると、そこには「自分をそのままに生きること」が失われています。
そうしたとき、私たちは五感 – 目・耳・鼻・舌(味覚)・肌の過多接触や過少接触、誤用を用いて自らを混乱に招き入れます。
混乱しているとき、私たちは「満足感」を得ませんので、幻想と妄想との間で苦しみます。
私たちはバランスが取れているとき、「満ち足りる」ということを味わいます。
現代において、アーユルヴェーダを学び暮らしへ取り入れる際、5000 年前のそれとはちょっと(だいぶ)違ったアプローチを用いて実践し沁みこませてくことが必要になります。
もっと言えば「必要性」を問わないことの実践がある種で試されるでしょう。
それは本能であり、本来の人間の姿であり、それ(健康と幸福)が真実 = 普通であるからです。
アーユルヴェーダという生命のための学問は、人間のためにだけ編み出されたものです。
すべてのアプローチは五感を拓き、バランスをもたらし、命の可動域を広くすることを目的としています。
健やかさと幸福は表裏一体なのですね。
身体心の結びつきが安定して循環が与えられれば与えられるほど、私たちは「自分」を生きることができます。
アーユルヴェーダで特に「健康」を構築する際に重要視されている「消化力」は、現代語で云えば「代謝能力」「免疫機能」「自然治癒力」となります。
これらは日々の習慣と継続によって創られ安定していきます。
この実践の過程で最も有意義なのは、「自分がそのことをすべて感じて経験できる」ことです。
・
・
2016 年、私がヨガを通じてアーユルヴェーダと出逢ったとき、自分の身体を知り、状態を観察する、し続けるということがテーマの一つになりました。
外界に向かっていたすべてのエネルギーを自分自身へ向けたといっても過言ではないほどでした。
しかし、全エネルギーを自分自身へ向けたときそこで見えたのは「自分自身のなかへ詰め込まれた計り知れないほどの〝その他〟のこと・モノ・人の存在」でした。
自分自身を徹底的に見つめ直すことで、その他のすべてをも必然的に観察をし続けることになりました。
何事も徹底的に知り得なければ、変化を直接的に取り入れることはできないのでした。
知ること、解釈することの最中で自分の身体心のクセや慣れにも気づきます。
それさえも取るに足らない些細な次元のことであると受容したとき、新しい扉が開かれていきました。
私たちが今求めているのは、
「自ら」の健やかさを通じた「すべて」の健やかと幸福でしょう。
今、あらゆる側面から「時間」をどのように使うかが、再度根底から見直される流れにきています。
_暮らしに何を取り入れるか、自らに何を、どのように取り入れるか。
そこから始まる探求に少しずつ意識的になって、人生へもっと参加していきたいですね。
・
アーユルヴェーダ省察プラクティショナー
K a o r i