さておき
自分のことにエネルギーを注ぐって大事ですね。
移住民ながら3ヶ月目になり、
「 散歩がてら朝食しに出かけ語らう 」
「 朝食がてら散歩しに出かけ語らう 」?
な、パートナーとの長年の習慣を移住後の軽井沢でも実施した日に思ったことからこの記事を書いています。
思いつくままに書いて校正そっちのけですが
これはリアルなままに残すでよいか、と皆様の柔軟な読解力と創造力に委ねての投稿です。
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私は多分に怠惰側の人間なので
先んじて物事が生じてから、
「 こう感じる 」+「 あぁ思う 」っていうのが出てそこへ意識や行動を向けていきます。
ゼロベースじゃなくて、イチベース。
何かへの課題意識から
理想像や意識的な思想って芽生えると思っていて、
なので心底満足であれば、
特に〝 なにもしない 〟モードに入ります。
怠惰万歳。
それが直近までの私だとして、
その延長線上に
「 こうするとさらに良さそう 」という、
哀しいかな果てない欲かはたまた貢献という形で表面化してくれるかは神のみぞ知る領域だけれど、いま「 今のすべてにとても満足 」しながらも、そのうえでアイデアや閃きがたくさん湧いてきています。
イチベースではなく、ゼロベース。
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環境や他者から学ぶこと
自分の身体こころを見つめ直したときから、少なからず私のなかに幸せに対する絶対的な理想みたいなのが芽生えていたのだけれど、色々な意味で、色々な側面で、そこへ投げかけられる「 抵抗 」のエネルギーってあるんだなといつからか思った。
それを分からない、証明求む、保証求む、私はどれと違う、私はこっち、みたいなエネルギー。
ヒトというか、環境的なエネルギーなのだろう。
でもそれは私自ら「 道草食ってる 」から生じて、感じているアクションである。
そりゃそうだ私は依然ひとに執着していた(る)し、周り皆にも分かってほしい、理解してもらえたら嬉しい、という精神を人並よりは低いかもしれないけれど私的には多めに持ち合わせていると気づかされる。
でも、それがなにかしら〝 貢献 〟に成るのであれば、それもカルマの一環なんじゃないかとこれまで思ったり考えたりしていた。
でも、それだけ( の理由 )では埒が明かない感じもして。
私たちって、
皆それぞれ違うカルマを持って生きている。
最近の言葉でいうと〝 世界線 〟ってやつ?
* 本質は結局まったく同じなんだけれど、
本当に、〝 異なる 〟ジャンルに生きている、生きられるように、今この世界がなっている。
勿論、最良で最善でごく風のように心地よく肌馴染みが早いような素敵な出逢いも数多くあるからこのことに気づいた。
そしてこういう透明で形のない出逢いって、既に「 今のすべてにとても満足 」なので負荷が全くかからない、もう最初から完成していて、完璧ではなくても、完全であるのだ。
から、そこにかからない力 = 余った力を〝 抵抗のエネルギー 〟に働きかけるべきかというと、それは違ったんだ。
正しくいうと、最初こそその使い道なのだけれど、エネルギーが高まるうちにその次元( 抵抗のエネルギー )は消えて、離れていく。あちらからも、こちらからも。
〝 抵抗のエネルギー 〟に働きかけるという行為そのものが、実は自らが抵抗していることの現れでもあるからね。
実際、〝 抵抗のエネルギー 〟は別名〝 異なる世界線の生き物 〟と想うと、もっとも、私のなかの足らない大らかさによって愛おしくさえ思えてきて、一切の介入の欲など失せていく。
この感覚を実は 2 , 3 年ほどいち側面でリピートしていた。
ここだけの話。
でもだからこそ、
私はそういうところからも
〝 自分がどうしたいか 〟を学ばせてもらっているのもあって。( 怠惰だから )
「 今のすべてにとても満足 」‥の延長線上にエネルギーを捧げるとそこはなんだか無尽蔵のものを見せてくれて、時間軸も制限もなく、‥愛に満ちている‥と知る瞬間が何度かありました。
一番近しく一番親しく、それでいてごく自然に命たちがそこにあること。
そういう関係から、教えてもらえることがありました。
色んな世界線があることがわかると
そりゃあ波動もエネルギーも、相性( 補完含めて )ってあるんだな。
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きっと私がそういう波動に向かうためのプロセスであったと、気づくのは今。
出逢えた優しい愛へ平等に在ろうとするとき、
私が私を生きて自らの足場を創り守らないことには元も子もないんだなと。
他者に手を差し伸べることとと
他者から寄りかかられることの狭間で抱いた嫌悪感は、
私がもっとただただそのままの自分を信じていいということを後押ししていたんだな。とか。
私が信じるものを
誰よりも私自身が信じているべきであって、
私を信じてくれている人のためにも
愛のままに我儘に( ~♪ )生きることが大切である。
これはリマインドだ。
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朝一番に思いつくこと
閃くことが真実
2011 年からおしんと色んなことを話し合ってきました。
思えば当初から何時間も歩いて語らうことが習慣で。
いいなっていう想い、
よかったなっていう想いはそういうシチュエーションでは特に充満しやすい。
特に朝( 午前中 )は最強じゃないかと確信を持っている。夜よりも、朝。
夜のエネルギーって鋭いけど翌朝には溶けていることがある。
充分な睡眠を経て朝すんなり起きる、
ディナチャリヤの一環で身体を清めたら、脳がしっかり目覚める。
そこで。
観たい景色を眺めながら
愛するひとと語らうなかには、いいアイデアしか浮かばない。
・・・軽井沢に引っ越してからは、家に居ても木々がすぐ近くて小鳥のさえずりを絶えず耳にするので、なんだかとーってもリラックスできていて、休日も午前中は作業やら必要なことをしつつ在宅し、あたたかくなるお昼から散策やランチに出ることが大半になった。
都内に居た頃は週末は高確率で朝一から出かけていたので私たちにはのんびりなペースです。
先日、移住後初めて
7 時台のモーニングに出かけると、
その敷地内に走り回るリスを見かけた。
軽井沢へ来てから初リス♪
リスの知らせやなーなんて思いながら、
おしんといつものごとく「 いいな 」とか「 よかったね 」の語り合い。
いいなって、いう閃き( アイデア )と同じくらい大切にしたいのは
よかったねっていう、これまでへの受容の感覚。
・・・特に今だから言えることとして、
昨年末まで東京のタワマンの一室に住んでいた頃
「 食事 」「 睡眠 」「 習慣 」「 ライフスタイル 」のうち私にとって唯一 薄目( 遠目? )に不満足であったのは「 ライフスタイル 」の一部。‥なんというかそれは居住環境にあったように思う。
勝どきという場所は好きだったし、
ご近所さんもいい方居て和んだし、
家は間取りもいい具合で
設備も快適で 24 時間ごみ捨てれたし、
ある意味で何の不自由もなかったけれど。
きっと私には便利過ぎて、
不自由がなさ過ぎて、もっと不自由したかったのかな?と。
タワマンって地上からも隔離されていて常に浮いた環境でかつコンクリートに囲われているから、
快適だけど、グラウディングには乏しくベストではない感じというか。‥
いや、あれこれしてグラウディングに務めけっこう落ち着いて暮らしていたけどもね、
ここ今現在は務めなくともグラウディングして、大地と空を感じている。
とて幸いにも勝どきから築地 銀座 日比谷っていう散歩コースがあったことで、平日もできるだけ歩いては自らをグ自然に還すというか、日比谷公園とか皇居あたりは最高だったしな。
だから週末も朝からテクテクおしんと何時間も歩きがてらブランチへ出かけるなどして、それが私 ― 私たちの「 ライフスタイル 」であった。
食事 睡眠 習慣 … すべてにおおよそ満足していても、居住環境 ― 自然を感じられるかどうかってもはや私にとって絶対的なものと化していて( 薄目遠目には分かっていたんですよ )、嗚呼だから「 食事 」「 睡眠 」「 習慣 」「 ライフスタイル 」の4柱なんですねアーユルヴェーダよ。と身に沁みていました。
全体のバランスが、本人にとってちょうど良いか。
おしんと私の会話には
「 現在 」=「 未来 」&「 過去 」みたいな配合でトピックスが並ぶ。
こういう幸せがあったよ、
そういう幸せを大事にしたいよね、
であればこういう環境をつくっていきたいよね、
そういう連鎖からエネルギーが満ちて、
それが軽井沢移住にも繋がっていて、
そうして今後のことにも繋がっていく。
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今後の Ananda を是非たのしみに想ってもらえたら嬉しいです。
:本 BLOG 素案メモ 3ヶ月が経とうとしていて |
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Kaori