少ないは多い
多いは少ない
・
体と心の深い変容・成長は、
外側でなく内側で求めたときに起こります
内側からの変容が起こると
心の純粋な感度も高まります
明晰さとともに
長期的に肉体的な安定も養われていきます
・
少ないなかで、
単調ななかで育めること
微細な意識とともに生活を営んでいくと
“ 少ない ” なかでいる方が
“ より多く ” 享受できることに気づかされます
何でも早く多くこなすことは
確かに達成感や充足感をもたらすようにも感じられますが、
私たち人間にとっての暮らしの土台から見れば
それは真実とはかけ離れていきます
時に人生では
そのようなシチュエーションも付き物で、
それに向かって
心置きなく楽しめるのなら良いですが、
それを何度も、
長期的に心地よく行えるという人は少ないです
物事に対し “ 十分 ” に感じるか、
“ 不十分 ” に感じるかはすべて私たちの心次第です
少ない中でも多くのことに気づけること、
すなわち 1 から 10 が見えて、
それが全体性と生産的思考を生みだし、
慈悲と歓びが心に湧き上がることが
私たちの精神、魂、存在を成長へと向かわせます
ヨガで “ アヒムサ ” は、「非暴力」を意味します
これは自分にも人にもモノにも場所にも
やさしくいる慈悲の心、精神をいいます
平和を願い、
欺くことも裁くことも批判することもない態度、
生き方を表します
これが実践されるとき、暮らしにおいて
自分に無理を強いることも自然と減るでしょうし
(だからといって甘やかす、怠惰に陥るということでもなく)、
恐怖心や怒りなどの
見えない感情からくる迷い、逃げも少なくなるのではないでしょうか
また、“ サティヤ ” は「正直さ」を意味し、
自分の想いと行動と発言に
一貫性をもつという意味がこめられています
・本当に思っていることだけを云う
・本当に思っていることだけをする
自分に対しても相手へ対しても
そのような正直さをもって、ウソを重ねない姿勢のことです
これにはある種、孤独への忍耐が必要に思います
私たちは多くの場合、
「人から好かれたくて、
愛されたくてそのような振る舞いをすることがある」
と恩師が説いてくれていました
毅然とした態度で、
意図的に “ その場になじむ ” ことを除いて
・必要以上に “ 物事に共感しなけらばならない ” という言動
・ “ みんなこうしているから ” と同じことをする
・本音を隠すためにあえて別のことを云う
などの行為は、
内にある “ 正直さ ” を損なうことになります
「私たちは皆、何もしなくてもすでに愛される人です」
恩師が続けてそう教えてくれた時、
私はこれまで正直でなかった自分を赦そうという気になりました
少ないなかで
単調ななかで暮らすということは、
自分を律しながらも
甘やかな経験と結びつき、
真の自己を見つめながらも
ほかすべてとのつながりを見出せること
なのかもしれません
自分の暮らしを完成させる
ヨガやアーユルヴェーダの教えから
自分の暮らしの土台を見つめなおし
実践を重ねていくと、
“ 暮らし ” は本来、
自分のテリトリー内でほとんどかなうことがわかります
(もちろん、食物や住む場所の提供においては
他の多くの人が関わった末に受け取れているものなのですが)
例えば
食事は外食が当たり前で
セルフケアはマッサージ施設で施術を受けるのが当たり前、
不調は薬局に駆け込み、
病があれば病院に通う、・・・
これが “ 普通 ” になると、
自分の暮らしの土台は空っぽになります
自分の手で何かを紡ぎ、
愛をこめる行為を避け続けていると、
人生は “ 充実 ” しているように見えたとしても
中身は味気なく、
故に外側にもっと色を求めるようになるかもしれません
いくつか例として記述すると、以下のようなことが考えられます
・外食が多いと浮腫みやその他消化不良を引き起こします
・= 外食が多いとその分マッサージやエステの頻度も多く要するようになります
・外食が多いと “ 食べる以外のこと ”(食物の選ばれてきた経緯、調理すること、盛り付ける楽しみなど)を考えないのが普通になります
= 退屈しやすく、もっと楽しいものを求めるようになります
・不調時に薬局に駆け込むとセルフケアの大切さに気づきません
= 不調時には自分の生活習慣を改める必要がありますよ、と身体が云っているのです
暮らしの中で
ネットワークやコミュニティを持たないということではなく、
自らの暮らしの土台は自力で養う傍ら、
互いに分け与えれる産物と
関係性を創り築くことが大切だと思います
食事も家事も、
自分の見方から取り組む姿勢が変わります
すべてのことを “ 貴重な経験 ” として
受け入れ、取り組む過程に
真の充足感、経験値を築けるのだと思います
誰も見ていないような行為、
日々の何気ない瞬間のすべてが、“ 自分 ” と “ 人生の楽しみ ” を深めます
(ごみ捨てやお皿洗い、駅の改札を通る瞬間でも)
自分のことは
自分で責任をとるという姿勢
恩師が前にこんなことを話していました
「自分のことは自分で責任を取りましょう、それがアーユルヴェーダです」
究極な見解だと思いませんか
自分のすることの原因と結果に正直になり、
自分のこと愛で、育み、見守る・・・
少なく単調な暮らしのなかで
“ 自分のことに責任を持つこと ” を習う必要があるのかもしれません
アーユルヴェーダはそもそも、
その昔賢者たちから生まれたもので
それは真の自由は健康と幸福のうえに成り立つものである、
という想いがこめられているように思います
当時、人々の間に
病気が蔓延していくのを目の当たりにした賢者たちが
「どうしたらそれを克服することができるだろう」と
編み出した膨大な智慧が、
後の伝統医学、生命の科学として今日まで受け継がれているのです
現代でまた、これほどまでに
アーユルヴェーダ熱が高まっているのは
いよいよ
“ で、本当に健康に役立つものって何なの? ” と
感じている人が多いからではないでしょうか
本当の答えは “ 自分自身 ”
“ 自分の暮らしの基盤をきちんと築いてください ” と
アーユルヴェーダは教えてくれているような気がします
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