ヨガで〝 サムスカーラ 〟は過去の残像やイメージを表します。
ポジティブなものもネガティブなものも関係なく、
印象として残ったものをサムスカーラといっていいと思います。
ポジティブなサムスカーラでも
それにしがみついていたらネガティブな作用がうまれるし、
一見してネガティブなサムスカーラも
解釈と解消によってニュートラルな経験値に至ることがあります。
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食べ物はおくすり
食事についていい出すと、
どうやっても〝 結局は社会のせいにしたくなる声 〟
が尽きないなぁとは思う。
その立場を目撃すれば
私もちょっとは言いたくもなる。
例 )
・イヤイヤ仕事をさせられていると、食がないがしろに、へんなことになる
・社会という全体的な仕組みがつくられた以上、個人への歪みはどこまでも
・社会が変わらなければ、食も完全には変わり得ない
まぁまぁ、まぁまぁ。
それでもだよ、それでも。
個人と個人の集合体が社会なのだし、
全体のことよりもまず個人が、ひとりが、
自分が想ったときに、行動を、
その行動からの、また行動を、
一つひとつが動き続けることを認めようよ、と。
さぁ毎日のこと、
自然なる空腹を待って
自然なる唾液の訪れとともに食事を始めよう。
そういう習慣を、つくろう。
この人間界、
食べれることが当たり前でなかったことをもつかの間想い、
嗚呼いま私は食べれるのだという幸運さに浸ろう。
しかも、とんでもなく美味しいだろう?この食事。
どこだかの食事についてそこまで知らないけど、
この日常〝まずい〟と思って食べていることなどまずないのだ。
大人になったいつかのタイミングで
食事への概念を一度リセットしてみたのは大変有益だった。
「 食べ方は、生き方 」だとわかったから。
なにかから逃げるように
あるいは貪るようにして、
どことなく渇望しては
征服の気分で食べているのがほとんどだったのではないか?
母からの愛情に飢えた自分が、
父への怒りをひた隠した自分がどこかに残っていた。
食べ方のクセというのはもはや習慣で
自分では気づかなくなり、
そのうちに人格となって人生そのものとなっていた。
2016 年、アーユルヴェーダと出逢い
「 基本的なもの 」での食事内容が提供された。
「 基本的なもの 」の継続的な実践から、
そこからはみ出ていたり、ズレていたり、
歪んでいるいろいろなものが浮かび上がっていった。
自分の食べ方を客観的かつ包括的に観察し
不要なものを削いで本当に必要なものを備えるべく
新たなアプローチを試みることで
習慣が変化し、人格を取り戻し、人生が新しくなりはじめた。
消化力を整えることについては
これまでも何千と話したり書いたりしてきたが、
今の時点からみても改めて推したいことがある。
1・空腹を待つ
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