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Q・10
かおりさんが理不尽な怒りの対象になったときの対処法はありますか?
私は罵声の中、ただ頷き静かに謝ることはしないと決めました。
彼女に対し、皆逆らえないようで、謝ろうとしている人もチラホラ‥。
客観的に見て自分が謝るに値しないと思ったとしても謝るべきだったのか、どうしたら良かったのか、今後どうしていくのがいいのか聞いてみたいです。
A・自分が自分で居ること。
そのこと自体に翻弄されないこと。
今の自分にできる最善のことをすること。
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私たちは生きるなかで〝関係性〟を育みます。
関係性を通して自分の役割や存在そのものが大きく成長することもあります。
〝関係性〟を育むとき、
そこにある当人同士の〝エネルギー〟が、言葉や行動として現れます。
〝関係性〟をどう指し示し – 育むか、
【自分の在り方を決めることができる唯一のものは自分自身である】ことを覚えておきましょう。
ドーシャ(体質・傾向)や
グナ(心の質)は、
無意識でいると
簡単にそれ(対象)に同一化 – 同調し、
気づくと自分がそれ自体になってしまうことがあります。
「理不尽な怒りの対象」になったとき、
それを目撃はするも、〝それ自体〟になってはいけないということがわかります。
それ自体になる、というのは
怒りに対して激しく動揺したり、
同じように自分も嫌悪感や怒りを強く発した状態
=〝真に受ける〟ことをいいます。
その瞬間、
自分が相手のなかにくっついてしまうことになり、
互いに居心地が悪くなり、
片方ないしは双方がどっと疲れることになります。
先に相手が「理不尽な怒り」にあるとき、
それは不安定であるということの現れなのです。
私たちは不安なとき、
見えない恐れや怒りが強いときに
気持ちの置き場が見つからずに激しく怒ったりします。
そんなときに、
こちらも動揺してしまえば
当人はより〝不安定〟な状態から抜け出せず、
「理不尽な怒り」を続けなければいけなくなります。
では、どうするか。
「どうもしなくていい」ということです。
そのこと – 相手を
コントロールしようとしないことです。
自分が自分のオーラ (存在) を守りつつ、
その場に〝安定〟したままでいる、
この土台を心得ることができれば
自分も相手も後にどっと疲れることはありません。
表面上の態度や言葉に振り回されないでいましょう。
「理不尽な怒り」であっても
– その他の言動であっても-
根底で “本当に抱いていること ” を想像してみてください。
_ 理不尽なほどに怒っているということは
何かに対し不安を募らせていたり
恐れている感情があったり、
対処法が分からないままに
不器用なままでその場にいるということです
その人が「本当に言いたいこと」は
単に「理不尽な怒り」ではないことがわかったとき、
少し見え方が変わってきませんか。
– – – – –
もし私が
「理不尽な怒りの対象」になったとしたら、
私は「自分が」理不尽な怒りの対象
とされているのではなく
「相手の」未消化の感情に
たまたま居合わせているのだと解釈します。
そのうえで
相手が本当に伝えたいことがなにか、
何を思ってそうしているかを考えます。
心が満たされているとき、
人は「理不尽」には怒りません。
そうではなくて、
自分を律したうえで、
_ 相手を思いやる故の “ お叱り ” なら
私たちはそれを理不尽な怒りだとは感じないはずです。
また相手が理不尽に怒るとき、
自分にもそういった面がないかを省みることも
現象として起きることがあります
“ 理不尽に ” 機嫌を損ねたり
“ 理不尽に ” 自分自身に言い訳をすること。
・・・
あるんですよね。
だからこそ、
相手が「理不尽に」怒っていたら
・自分自身が安定した領域に居ること
・表面上の態度でなく根底にあるものを見る
です
すると、自分がその時に
何を – どうすべきか – は、自然と展開するに任せたら良いことがわかります
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「相違」は多様化をもたらす
健康を生じると同時に病気を生じる場でもある。
正直であること、
妬まないこと、
肉食・帯刀・女性とのむやみな接触の禁止、
控えめな衣をまとい、
悪人と交流せず、
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次回の質問回答記事もぜひお楽しみに。
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